高橋源一郎『文学なんかこわくない』(朝日文庫 2001年)

 人は何のために「小説」を読まねばならぬのか。
 決まっているではないか。「生きる」ためだ。
 「生きる」ということと、呼吸して、飯食って、糞尿を垂れて、おしゃべりして、ガアガア寝ることは同じじゃないのである。それじゃあ、猫と同じじゃん。
   (中略)
 しかし、人間には猫と違った意味で「生きている」時がある。
 もったいぶった言い方は止めようね。
 それは「生き直している」時なのである。
 猫は「生きる」。猫にも感情があり、おそらくは記憶のようなものもある。けれど、猫は決して「生き直さない」。猫の時間はA地点からB地点を経てC地点へと淀みなく流れる。
 しかし、人間は「生き直す」。A地点からB地点へ行き、それからX地点へ上昇するのか、A地点に限りなく近いA’地点へ戻るのか、螺旋状に回帰するのか、ワープするのか、定かではないが、とにかく、人間は「生き直す」のである。(P.44−P.45)

 だいたい現実の存在の方が虚構の存在より上等であるとも思えぬのだ。
 タカハシさんはよくそう考えるのである。それが証拠に、人は苦しみ悩むと、本を読んだり、映画を見たり、音楽に聞き入ったりするではありませんか。
 もし、現実の存在の方が虚構より、実際的というか現実的というかとにかくそういう頼りがいのあるものであるなら、苦しみ悩む人はどうしたって現実のなにかを見たり触ったりするはずである。
 にもかかわらず、昔から死ぬか生きるかの瀬戸際で、人は部屋に閉じこもって詩集なんか読んだりしてきたのだ。
 あれは虚構の存在の方が現実より頼りがいがあるからではないのか。
 虚構の存在であるタカハシさんとしては、現実のみなさんにいいたいことがたくさんある。要するに「あなたたち、ちょっと存在としては軽すぎやしませんか」というようなことである。(P.150)

 ぼくが小説を書いてきたのは、自分がどんな世界に生きているか知りたいと思い、そしてそのことを、読者にも共有してもらいたかったからだ。(P.237あとがき)